ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。
人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。
わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。
あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった。
祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕
主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。
「わたしたちはこの人が『わたしは手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に手で造られない別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました」。
アロンが聖所にはいる時は、さばきの胸当にあるイスラエルの子たちの名をその胸に置き、主の前に常に覚えとしなければならない。
また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。
キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。
この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。
彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。
その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである。
御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。
それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。
時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。
あなたはとりこを率い、 人々のうちから、またそむく者のうちから 贈り物をうけて、高い山に登られた。 主なる神がそこに住まわれるためである。
この二つの石をエポデの肩ひもにつけて、イスラエルの子たちの記念の石としなければならない。こうしてアロンは主の前でその両肩に彼らの名を負うて記念としなければならない。
あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。
わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。